この受験まで使える最強の記述問題集は、
※教科書は、帝国書院の「中学生の歴史」を参考にしていますが、ほかの出版社の教科書にも使えます。
※問題集や定期テストの過去問題、入試問題などで見かけた記述問題を目いっぱい載せているので問題量が多いですが、授業の予習・復習で教科書を音読し、続けてこの記述問題集を読むとより理解が深まります。
※記述問題の答えを覚えるのは大変ですが、記述問題が答えられないと半分しか点が採れません。授業の予復習で日頃からこの記述問題集を音読して理解を深めておいて、テスト前には暗記するようにしましょう。また、しっかり理解していれば、自分の言葉で答えられるようにもなります。
※言い回しが違うだけで似たような問題が続くことがあります。それだけ出題回数が多かったことを表しています。
※学校で配布された問題集に同じ問題があればその答えを、授業で先生が説明していればその説明を優先してください。
中学・歴史<明治時代>
Q. 明治新政府は、どのような国家を目指したか?
A. 天皇の名において、政府が直接全国を治める、中央集権的な国家を目指した。
Q. 五箇条の御誓文から読み取れる政治方針を述べよ。
A. 外国の文化を取り入れ、世論に従って新しい政治を行うという方針。
Q. 五箇条の御誓文の「万機公論ニ決スヘシ」とはどういう意味か?
A. 世論を大切にしながら政治を進めていく。
Q. 明治の新政府は藩閥政治とよばれた。の出身者が、政治の重要な役職をしめて政治の実権を握ったから。なぜか?
A. 倒幕の中心となった薩摩、長州、土佐、肥前の4藩の出身者が、政治の重要な役職をしめて政治の実権を握ったから。
Q. 版籍奉還で行われたことを述べよ。
A. 土地と人民を政府に返させた。
Q. 版籍奉還は、実態が以前と変わらず効果があがらなかった。なぜか?
A. 旧藩主をそのまま藩政にあたらせたから。
Q. 廃藩置県により、どのような国家がつくられたか?
A. 政府が全国を直接治める中央集権国家がつくられた。
Q. 版籍奉還や廃藩置県を行った目的はを説明せよ。
A. 新政府が強い権限をもつ中央集権国家をつくるため。
Q. 殖産興業とはどういうことか?
A.・明治政府の、近代産業の育成を目指した政策。 ・政府が主導して産業を育てていくこと。
Q. 学制が公布されて、小学校教育を受けた人々はどのような人ですか?
A. 6歳以上のすべての男女
Q. 学制が公布されても初めのころは就学率が低かった。なぜか?
A. 農村では子供が大切な働き手であったばかりでなく、授業料の負担も家計にとって重かったため。
Q. 学制は、当初農村では歓迎されなかった。なぜか?
A.・学校の建築費や授業料は地元の人々の負担だったから。 ・働き手を失うから。
Q. 徴兵令とは、どのようなことを定めたものか?
A. 満20歳になった男子は、3年間の兵役の義務を負うこと。
Q. 徴兵令を出した目的を説明せよ。
A. 全国統一の近代的な軍隊をつくこと。
Q. 徴兵令で、兵役の義務を負ったのはどんな人々ですか?
A. 満20歳になった男子。
Q. 明治の兵制の改革として、新政府は1873年にどのようなことを行ったか?
A. 徴兵令を出し、それまでの武士が中心の軍隊ではなく、国民による西洋式の軍隊をつくった。
Q. 地租改正の目的を説明せよ。
A.・国家の財政を安定させること。・政府の財源を、米の収穫量や米価に左右されない安定したものにするため。
Q. 地租改正によって、政府の収入が安定した理由を述べよ。
A. 収穫量が安定しにくい米ではなく、地価を基準に一定の税率で、現金で納めさせることにしたから。
Q. 地租改正により、政府の財源はどのように変化したか?
A. 土地所有者に税を現金で納めさせることによって、収穫量や米価に左右されない安定した財源となった。
Q. なぜ、地租改正で、税を現金でおさめるようにしたか?
A. 米で納めると税が安定しないから。
Q. 地租改正によって課税の基準と税の納め方はどのようになったか?
A. 課税は地価を基準に行われるようになり、地価の3%を現金で納めるようになった。
Q. 地租改正によって、土地の所有者にどのようなことが義務づけられたか?
A. 地価の3%を地租として現金でおさめること。
Q. 地租の税率が引き下げられたのはなぜか?
A. 全国各地で地租改正反対の一揆が起きたから。
Q. 一揆や反対運動の成果として、「竹槍でどんと突き出す二分五里」と歌によまれたのは何の成果か?
A. 地租が2.5%に引き下げられたこと。
Q. 地租改正と殖産興業とはどんな関係があるか?
A. 地租改正により安定した財源が確保され、計画的に殖産興業へ予算を回すことができた。
Q. 明治初期に見られた文明開化とはどういうことか?
A. 都市部を中心に欧米の文化が積極的に取り入れられ、人々の生活の仕方や社会の様子が大きく変化したこと。
Q. 岩倉使節団の2つの目的を述べよ。
A.・幕末に江戸幕府が欧米諸国と4結んだ不平等条約改正の準備のため。 ・欧米諸国の政治のしくみや産業、文化を視察するため。
Q. 岩倉使節団は、欧米を訪問してどのようなことを感じたか?
A. 国力の充実が必要であると感じた。
Q. 政府内で高まっ征韓論による朝鮮への使節派遣を、欧米から帰国した岩倉使節団の大久保利通らは延期させた。その理由を説明せよ。
A. 近代化を早急に進め、国内の整備と国力を充実させることが先だと考えたから。
Q. 板垣退助は新政府のどのような点を批判したか?
A. 長州藩や薩摩藩など一部の藩の出身者によって政治が動かされている点。
Q. 民撰議員設立建白書ではどのようなことが要求されたか?
A.(藩閥政治をやめて)人々の意見を政治に反映させるために、国民が選んだ議員が作る国会の早期開設を要求した。
Q. 自由民権運動では、何を主張したか?
A. 少数による専制政治をやめて、国民が選んだ議員が作る国会を開くことを主張した。
Q. 自由民権運動の演説会の絵を見て
1. 演説する弁士は何を訴えているか?
A.「藩閥政治をやめ、民撰議員を開き、国民を政治に参加させよう。」
2. 警官は何をしようとしているか、また聴衆は何と言っているか?
A.「弁士中止」と叫び、演説をやめさせようとする警官に、民衆は怒りの声をあげている。
3. こうした民権派の活動に対して、政府はどのような対応をしたか?
A. 言論や集会を取り締まったり、民権派有力者を政府の役職にとり立てたりした。
Q. 1877年、西南戦争が起こった。なぜ、士族は反乱を起こしたか?
A.(帯刀が禁止され、士族に与えられていた給料が廃止されたりして)士族の特権が廃止されて、士族の不満が高まっていたため。
Q. 西南戦争の前と後では、政府への不満の形はどのように変わったか?
A. 武力によるものから、言論によるものが中心となった。
Q. 立憲政治の実現を目指す政府と民権派の考え方には、どのような違いがあったか?
A. 民権派は民撰議院を早く設立せよと求めたのに対し、政府は時期尚早と10年後に天皇中心の立憲君主制の確立を目指した。
Q. 伊藤博文は、板垣退助ら自由民権運動の国民を政治に参加させる考えは当時の日本にはまだ早すぎると思った。なぜか?
A. 遅れた日本を急いで近代化するためには、国民の権利よりも政府の権限を強くした方がよい、と考えていたから。
Q. 伊藤博文はどのような国をつくろうとしたか?
A. 天皇中心の中央集権国家。
Q. ドイツ(プロイセン)憲法を参考にした理由は?
A. ドイツの憲法は君主の権力が強かったから。
Q. 大日本国憲法を、君主制の強いドイツの憲法を参考にしてつくった理由は?
A. 天皇中心の国家の仕組みを確立するため。
Q. 大日本帝国憲法では、国民の権利はどのように認められていたか?
A. 天皇の臣民として、法律の範囲内で言論・出版・集会・結社・信教の自由などが認められた。
Q. 大日本帝国憲法では、国民に自由と権利が認められていたが、制限がつけられていた。どのような制限か?(大日本帝国憲法では、基本的人権はどのように認められていたか?)
A. 法律の範囲内で認められていた。
Q. 大日本帝国憲法の特徴を述べよ。
A. 天皇が国の元首として統治すると定められ、君主権が強かった。
Q. 大日本帝国憲法について…
A.・主権は天皇にあり、天皇が国民に与えるという形で発布された。
・天皇は神聖にして侵すべからずと規定され、神格化された。
・内閣・議会・裁判所は全て天皇の統治のもとにおかれていた。
Q. 1890年に行われた第一回衆議院議員総選挙の際の有権者の条件を説明せよ。
A. 直接国税を15円以上納める25歳以上の男性。
Q. 帝国主義とはどのようなことか?
A. ・欧米諸国の列強が、資源や市場を求めて積極的に海外に進出し、軍事力を行使して、経済や技術の発展度合いが低い地域を植民地などとして支配した動き。
Q. 欧米の列強諸国が、武力によって植民地を広げていった目的を述べよ。
A. 豊かな資源と市場を手にいれること。
Q. 明治初期のころ、政治家たちは独立自主の日本を作ろうと懸命であった。なぜか?
A. 明治初期の日本は、欧米諸国に比べて軍事的にも産業的にも近代化が遅れていたので、欧米諸国に侵略されないようにと思っていたから。
Q. ノルマントン号事件以後、日本国内ではどのような声が高まったか?
A. 領事裁判権の撤廃を求める声が高まった。
Q. ノルマントン号事件をきっかっけにして、条約改正を求める世論が高まったのはなぜか?
A. 日本人乗客を救助しなかったイギリス人船長を、日本側で裁くことができなかったため。
Q. イギリスは日本との間で最初に領事裁判権を撤廃した。そのころ、イギリスが日本との関係を強めようとした対外的な理由を説明せよ。
A. ロシアの南下政策に対抗するため。
Q. 日清戦争直前の東アジアの情勢について述べよ。(ビゴーの魚釣り遊びの風刺画より)
A. 日本と中国が朝鮮をめぐって勢力争いをくりひろげており、東アジア進出をねらっているロシアがその様子をうかがっていた。
Q. ビゴーの魚釣り遊びの風刺画から見てわかる日清戦争の原因は?
A. 日本も中国も朝鮮を支配しようとしたから。
Q. 下関条約で清から得た賠償金は、主にどのような目的に使われたか?
A. 軍事力の強化や日本の工業化。
Q. 日清戦争後に得られた賠償金の主な使い道を述べよ。(グラフから読み取り)
A. 軍備拡張費や臨時軍事費。
Q. 日清戦争後に得られた賠償金が主に軍事費に充てられたのはなぜか?
A. 満州を事実上占領し韓国への進出を強めるロシアと戦争をするため。
Q. 列強による清の分割が進むなか、義和団は北京でどのようなことを行ったか?
A. 外国勢力を追い払おうと、清の軍隊と共に北京の外国公使館を取り囲んだ。
Q. 日清戦争後、三国干渉で三国が日本に要求したことは何か?
A. 遼東半島を清に返すこと。
Q. 三国干渉によって、日本ではどのような感情が高まったか?
A. 国民の間でロシアに対する不満が高まった。
Q. 1902年に、日英同盟が結ばれた。どういった理由からか?
A. ロシアの南下政策に対抗するため。
Q. ロシアの挑む日本を描いたフランスの風刺画は、どのような状況をたとえているか?
A. 日本とロシアも朝鮮を勢力圏に入れようと考えていたが、ロシアは列強の1つで、日本はアジアの小国であった。世界の人々はだれも日本はロシアに勝てると思っていなかった。
Q. 日本が、日露戦争を続けることが難しくなった理由を述べよ。
A.(日清戦争と比べて)死者や戦費が著しく増大したため。
Q. ポーツマス条約により、日本が得た領土や権益について述べよ。
A. 韓国支配、遼東半島租借権、南満州鉄道権益、樺太南半分を領土。
Q. 日露戦争について、当時の国民はポーツマス条約の内容に不満だった。なぜか?
A. 賠償金を得られなかったから。
Q. 日比谷焼打ち事件はなぜ起こったか?
A. 日清戦争より犠牲や戦費も増大して人々は重い税金や負担に苦しみながら戦争に協力したのに、賠償金が得られなかったから。
Q. 日露戦争後、日本の国際的地位はどのように変化したか?
A. 欧米列強の圧力から脱して、国際的地位が高まった。
Q. 日清・日露戦争に勝利したことなどによって、国民の中にどのように考える人が増えたか?
A. 日本人はアジアの中で優れていると考える人が増えた。
Q. 韓国併合後、日本が韓国の人々に対して行ったことを具体的に挙げて説明せよ。
A.・学校で、朝鮮語や朝鮮の歴史を教えず、日本語や日本の歴史を教えた。 ・選挙権を認めなかった。
Q. 韓国併合後、朝鮮の学校ではどのような教育が行われたか?
A.・朝鮮史を教えることを禁止し、日本史や日本語を教え、日本人に同化させる教育。
Q. 韓国併合と辛亥革命の前後で、東アジアの地図がどのように変わったか?
A. 朝鮮半島が日本領となり、中国では列強の侵略、清の滅亡、中華民国成立と波乱が続いていた。
Q. 日本の産業革命により、どのような変化が起こったか?
A. 1880年代後半に日本では産業革命が起こり、綿糸の生産量や輸出量が急速に増えた。
Q. 日本で産業革命が進展して、綿糸紡績業の国内生産量と輸入量の関係は1890年代にどのように変化したか?
A. 綿糸の国内生産量が輸入量を上回った。
Q. 1890年以降、綿糸の国内総生産が輸入量を上回った。なぜか?
A. 産業革命により綿糸の大量生産が可能になったために、綿糸の国内生産量が輸入量を上回った。
Q. 1896年以降、綿糸の輸出量が輸入量を上回った。なぜか?
A. 軽工業で産業革命がおこり、綿糸の生産量が飛躍的に増大したから。
Q. 八幡製鉄所が北九州市に建てられた理由を述べよ。
A. 近くの筑豊炭田の石炭を利用でき、鉄鉱石を輸入している中国に近いから。
Q. 日清戦争前後から日露戦争前後で、日本の産業はどのように変化したか?
A. 日清戦争前後は紡績業や製紙業など軽工業が中心だったが、日露戦争前後からは鉄鋼業や造船業などの重工業が発達した。
Q. 日露戦争前後から日本ではどのような近代工業が発展してきたか?その以前と比較して説明せよ。
A. 日露戦争以前は軽工業中心であったが、日露戦争前後から重工業が発展してきた。
Q. 大逆事件では、どのような容疑で社会主義者などが逮捕されたか?
A. 天皇暗殺を計画したという容疑。
Q. 明治時代の教育について、明治時代の終わりころには就学率はどのようになったか?
A. 就学率は100%に近づき、男女の差もほとんどんなくなった。
Q. 明治時代は多くの女性も活躍するようになった。なぜ、女性も活躍できる時代になったか。
A. 女性の就学率も年々上昇していったから。
Q. 二葉亭四迷が小説で使用したのをきっかけに、新しい文章表現が広まった。それはどのような表現方法か?
A. 文語体ではなく口語体で文章を書く表現方法。
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