この受験まで使える最強の記述問題集は、
※教科書は帝国書院の「中学生の歴史」を参考にしていますが、他の出版社の教科書にでも使えます。
※問題集や定期テストの過去問題、入試問題などで見かけた記述問題を目いっぱい載せているので問題量が多いですが、授業の予習・復習で教科書を音読し、続けてこの記述問題集を読むとより理解が深まります。
※記述問題の答えを覚えるのは大変ですが、記述問題が答えられないと半分しか点が採れません。授業の予復習で日頃からこの記述問題集を音読して理解を深めておいて、テスト前には暗記するようにしましょう。また、しっかり理解していれば、自分の言葉で答えられるようにもなります。
※言い回しが違うだけで似たような問題が続くことがあります。それだけ出題回数が多かったことを表しています。
※学校で配布された問題集に同じ問題があればその答えを、授業で先生が説明していればその説明を優先してください。
中学・歴史<縄文・弥生・古墳時代>
Q. 大陸と陸続きになっていた日本列島が大陸から切り離され、およそ1万年前にほぼ現在のすがたになったのはなぜか?
A. 氷期が終わり、海水面が上昇したから。
Q. 縄文時代の人々は、どのように食料を手に入れていたか?
A. 狩猟や漁、木の実などの植物採集を行った。
Q. 縄文時代の人々は、夏と冬とでは食べている物にどのような違いがあったか?(教科書P26.図2を見て)
A. 夏は海の物(魚)が多く、冬は山の物(動物)が多い。
Q. 縄文時代に作られた土器の特徴を説明しなさい。
A, 表面に縄目の文様が付けられている。
Q. 縄文土器は、どのようなことに使われていたか?
A. 食べ物の煮炊きや保存
Q. 貝塚とはどのようなものか?
A. 縄文時代の人々が貝殻や石器、土器などを捨てたごみ捨て場のあと。
Q. 土偶は何に使われたか?
A. 食物が豊かに祈ることなどを祈り、まじないに使うために使われた。
Q. 縄文時代から弥生時代になって、人口が増加したのはなぜか?
A. 稲作が広まり、食生活が安定したから。
Q. 稲作が広まることにより、社会にどのような変化が生まれたか?
A. 貧富の差による、身分の区別が生まれた。
Q. 縄文時代から弥生時代への社会の変化について、「稲作、争い、クニ」の用語を使って説明しよう。
A. 稲作が盛んになると、貧富の差、身分の区別が生まれ、ムラとムラの間で土地や水の利用をめぐる争いが生じ、やがて周辺のムラをまとめる有力なクニが現れた。
Q. 縄文土器と弥生土器の違いは? また、どのようにしてこのような変化があったか?
A. ・弥生土器は、縄文土器に比べてうすくてかたい。
・稲作とともに、渡来人がやってきて、技術を伝えたから。
Q. 青銅器は、日本ではどのようなことに使われていたか?
A. 豊作を神に祈る祭りの道具として使われた。
Q. 高床倉庫はどのようなことに使われたか?
A. 収穫した稲を蓄えるため。
Q. 高床倉庫が高床になっている理由は?
A. 湿気やねずみの害から稲を守るため。
Q. 吉野ヶ里遺跡は、周囲を濠と柵で囲み、物見やぐらを設けて敵に備えていたことから、当時の社会はどのような状態であったと思われるか?
A. 稲作のための土地や水の利用をめぐって、ムラとムラが争っていた状態。
Q. 吉野ケ里遺跡で見つかった濠や柵、物見やぐらのあとや頭の骨のない人骨は、どのようなことを示しているか?
A. ムラとムラの間で争いが起こっていたこと。
Q. 弥生時代のむらは、敵からむらを守るために、どのような工夫をしたか?
A. 集落の周囲に柵や濠をつくり、物見やぐらを建てて見張りをおいた。
Q. 志賀島で発見された金印に刻まれた「漢委奴国王」の文字は何と読むか?また、意味は?
A. 「カンノワノナノコクオウ」 漢に朝貢している倭の奴国王の意味。
Q. 中国の歴史書に書かれた日本の様子はどんなか?
A. 「漢書」…紀元前1世紀ごろ、倭(日本)は100ほどのクニ(国)に分かれていた。
「後漢書」…奴国の王が漢に使いを送り、皇帝から金印を与えられた。
「魏志」倭人伝…3世紀の倭は小さな国に分かれ争いが続いたが、邪馬台国の卑弥呼を枠にの女王にしたところ、争いが収まった。
Q. 邪馬台国が国々をまとめるために、どのようなことを行ったか?
A. 邪馬台国は、まじないによって諸国を治めるとともに、中国に使者を送って贈り物や王の地位を得ることで、ほかの国よりも優位に立とうとした。
Q. 倭の奴国の王や卑弥呼が、中国の皇帝に使いを送った目的は?
A. ・中国の皇帝に倭の王としての地位を認めてもらうことで、ほかの国より優位に立とうとした。
Q. 弥生時代や古墳時代、日本は中国とどのような関係にあったか?
A. 日本の立場が弱い。(中国の方が力が強い。)
Q. 3世紀から5世紀にかけて、日本国内ではどのような変化があったか?
A. 小さな国に分かれていたものが、大和政権の大王により大きな国にまとまっていった。
Q. 古墳とは何か?
A. 大王や豪族の墓。
Q. 巨大な古墳が造られた理由は?
A. 王(大王)の権力の強さを示すため。
Q. 全長200m以上の古墳が、奈良県や大阪府に多く分布していることからわかることは?
A. 当時、近畿地方に大きな勢力があった。
Q. 前方後円墳の全国の分布の様子から、古墳はどのような地域にあることがわかりますか?
A. 近畿地方を中心に、関東から九州まで広がっている。
Q. 埴輪は何に使われたか?
A. 墓に遺体とともに副葬品おして埋葬されたり、古墳に並べられた。
Q. 「はにわ」からどのようなことがわかるか?
A. 当時の人々の服装や住居のようす。
Q. 古墳時代、日本で鉄が貴重だった理由は?
A. 当時の日本には、鉄を作り出す技術がまだなかったから。
Q. 稲荷山古墳から出土した鉄剣と、江田船山古墳から出土した鉄刀の共通点は?
A. ワカタケル大王の名前が刻まれている。
Q. ワカタケル大王の名が刻まれた鉄剣や鉄刀が埼玉県と熊本県から出土していることから何がわかるか?
A. ・ヤマト王権の支配が西は熊本県から東は埼玉県までおよんでいたこと。(ヤマト王権の勢力が、九州から関東に及んでいたこと)
Q. ヤマト王権が、中国の南朝の皇帝へたびたび使いを送った目的は?
A. 皇帝の力を借りて鉄を安定して確保し、朝鮮半島諸国に対して優位に立とうとした。
Q. ヤマト王権と各地の豪族の結び付きは、どのように強まっていったか?
A. 朝鮮半島とつながりのあったヤマト王権に対して、各地の豪族は貢ぎ物や兵士の動員などの義務を果たすことで鉄や技術などを与えられ、結び付きを強めていった。
Q. 日本列島において、クニができ、勢力を広げていくのに重要だったことは何か?
A. クニを治める富と権力を持つ強力な指導者(王)が現れたこと。また、その強力な指導者(王)が朝鮮半島とを強めながら、鉄や優れた技術を手に入れ、各地の豪族を従えていったこと。
Q. 渡来人と呼ばれる人々はどのような人々か?
A. 中国や朝鮮半島から倭国(日本)に移住してきた人々。
Q. 大陸文化はどのように伝わったか?
A. インドから中国を経て、朝鮮半島から渡来人によってもたらされた。
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